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スペシャルコンテンツ 私たちの誇り
先駆
その光景は、フィルムとの格闘にも似ていた。
山口シネマが決勝写真撮影を始めた1948年、競馬先進国のアメリカに倣い使用していた高速度撮影機は、通常機に比べ7倍ものコマ数を撮影できる高性能だった。 反面、フィルムの長さも並外れており、わずか数秒のゴールシーンを撮影するのに、3メートル以上の長さを要したという。 一刻も早く着順を知りたい審判委員や観客が、じりじりと熱気を放ちながら待ち構える中、はやる気持ちを抑えて、長い長いフィルムを現像液に漬け込む。 現像液が乾き切る時間も惜しい。食い入るようにフィルムを見つめ、膨大なコマの中から決勝の瞬間を探す。 だが、熟練した手さばきと鍛えられた目をもってしても、高速度撮影写真は資料として不十分だった。決勝線に到達した馬の鼻先まで精確に捉えることは難しかったのだ。 何か新しい手段が要る。当時社長の山口𠮷久が痛感したところから、イノベーションは動き出した。

高速度カメラ

ヒントは雑誌の中にあった。
当時アメリカで熱烈に支持されたグラフ誌『ライフ』。そのページを繰る山口𠮷久の手が止まった。競馬のゴールシーンを切り取った大きな写真、その特殊な撮影方法に引きつけられたのだ。ゴールや柵、コースの芝がすべて細い線となって横に流れ、その中で馬と騎手だけが鮮明に写っている。アメリカではこうした写真が着順判定に用いられているという。「これだ」と彼は思わずつぶやいた。「こんな写真が撮れないだろうか」 −−調べると “フォトチャートカメラ”という名に行き当たった。フィルムの前に縦のスリット(隙間)が設けられた特殊なカメラである。シャッターはつねに開放状態なので、背景など動かないものは写らない。フィルムと同じ速度でスリットの前を過ぎるものだけがフィルムに写る。このスリットを決勝線上に合わせることで、決勝の瞬間を捉えるというしくみだ。さてメカニズムはわかっても、連合軍の占領下にあった当時の日本では、このカメラを入手する手段がない。山口𠮷久は考えた。買えないなら、作ってしまおう。

当時のアメリカのフォトチャートカメラ

そして、試行錯誤の日々が始まった。 そして、試行錯誤の日々が始まった。
鉄橋を渡る電車でテスト撮影を行う。ネガを確認し、スリットの幅を調整する。設計図を見直し、レンズとの距離やフィルム速度の計算を繰り返す。テストと改良は研究開発の基本だが、それだけに没頭しているわけにもいかない。当時の山口シネマでは、同じ開発メンバーが決勝写真業務も担い、競馬場から競馬場へと駆け回った。彼らを突き動かしたものは何か。それは、情熱だ。 “日本ではどこのカメラメーカーも作っていない新しいカメラを作りたい” 当時3〜4名だった社員もみな意欲的で、「小さな会社から大きな仕事をしよう」誰もがそう思い開発を推し進めた。そして1949年、中山競馬場のスタンドに風変わりな物体が登場した。30センチ四方の黒い箱に乗った円柱、そこから突き出したパイプ状のレンズ。『ライフ』に載っていた“あの写真”を撮れるカメラが、ついに完成したのだ。類を見ないこのスリットカメラは「山口式フォトチャートカメラ」と名づけられ、日本の決勝写真を変革するために、静かにその仕事を始めようとしていた。

当時のパンフレットの一部