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スペシャルコンテンツ 私たちの誇り
勇躍
日本ダービーの場内放送に、色彩を与えよ。
1960年、カラーテレビ放送の開始を端緒として、映像のカラー化が加速度的に広がりはじめた。もちろん競馬場やレース場の場内テレビも、時代の流れと無関係ではいられない。ファンの多くは、家ではカラーテレビを見ることだろう。場内テレビが白黒では、魅力に乏しいと感じるに違いない。1973年4月、日本中央競馬会の職員が川崎競馬場を視察に訪れた。この施設は早期に競馬放送のカラー化を成し遂げ、ファンの好評を博していた。視察を終えた関係職員は、このカラー放送の功労者に対して、「東京競馬場の場内テレビカラー化」も任せることに決めた。すなわち、山口シネマが大きな仕事を受注した瞬間だった。川崎競馬場の実績があるとはいえ、簡単な仕事ではなかった。日本ダービーの開催に間に合わせる必要があったのだ。そしてその日は、わずか一カ月後に迫っていた。
あらゆる障害を越え、その日に向けて疾走した。
「競馬はどんなレースでも同じ」が決勝写真業務やパトロール業務における山口𠮷久のモットー。だが、ファンサービス業務では事情が異なる。日本ダービーは、ファンにとっても競走馬にとっても、他では得がたい感動や興奮を味わう、年に一度の特別な日なのだ。−−残り一カ月。山口シネマの社員にとって一日一日は瞬く間に過ぎていった。カラー化においては、コントロール卓を交換しなければならない。万一の故障に備えて予備の機械を設置し、決して放送が途切れることのないよう万全を期した。東京競馬場のテレビ台数は100台を超えていた。この全ての受像機を新しいものへと取り替えていく。それから、カメラの問題もあった。カラー専用のケーブルに交換する必要がある。これを短期間で仕上げるのはかなりの仕事だった。ダービーの前日まで山口シネマの手が止まることはなかった。そして1973年5月27日、東京競馬場は大観衆で埋め尽くされた。高揚した雰囲気の中、馬券を買いに窓口に並ぶ人々。彼らが見つめるブラウン管の映像は、カラーだった。

ダービー用内馬場内仮設モニター

時代の変化にも揺るがない品質への誇り。
決勝写真業務にも大きな変化が訪れていた。フィルムを使わず、現像工程が存在しない。そんな判定資料が生まれたのだ。1982年のことだった。電気信号を映像に変えるテレビの構造に着眼したところから、開発が始動した。CCDカメラに内蔵したラインセンサーで物体を捉え、ビデオプリンタによって感熱紙にプリントアウトする。1984年に完成したその装置は、電子信号を利用するという意味で、デジタルビュアーと名づけられた。決勝地点の細部を、実際のレースとほとんど同時にモニターで確認でき、さらに同時にプリントアウトも実行する。かつてない即時性こそが、デジタルビュアーの強みであった。審判員のため、観客のため、真摯に映像と向き合ってきたことが山口シネマの誇りであり、進化を繰り返しながらも、この挑戦は現在まで続いている。

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